特にミュージカルで。
すんごく上手い!けど、すんごくつまんない!と、わたしが感じる役者さんが数多くいらっしゃる。人気投票では上位を占めているから、世間の評価は別。(ミュージカルファンは、アスリートを愛でる傾向があるのかもしれない)
「役と物語に沿って役者本人の気持ちが、細かくリアルに動き、相手役と見物に投げかけているか?」 そのへんに分かれ目があるのかなーと考えていたが、もうひとつすっきりとしなかった。
最近、こんな記事をみかけて、
サッカーはよくわからないけど、「集団的」と「組織的」の違いという考え方が、日本の演劇団体や役者の系統の違いに通じるなあと感じて。
ということは、
この差って、劇団や演出家のタイプというより、ゲームのコマ(役者)の意識が自立してるか依存してるかってことかな、とかね。
夕べは大駱駝艦の舞踏を観に行った。
そして、そこでふたつのキーワードと出会ったのよ。
「あれ、あげんさん?」 開場待ちしてたら、古い友人ぶみさんと会った。「おれさ去年、(大駱駝艦の)合宿に参加したんだよ」(←ぶみさんは役者です)
へえ。
こんなことを習った!と、いろいろ話してもらった中で印象深かったのが、
《からだの数センチ上にもう一枚皮膚を感じ、そこでの表現をお客にみてもらう(自分のからだそのもの、ではない)》
それから。田村一行さん作・演の『みだらな蛙』というめちゃくちゃステキな作品を拝見して。
振付なんだから、みなさん、言われた通りの動きをしてるわけだけど。ひとつひとつの動きを分解して自分なりの解釈を付与してるのかな。あー演者のひとりひとりがモノスゴク愛しい存在だなぁ、と感じて。
さて問題はこの、異様な集中力と、その持続の謎だ。と思い、「肉体の少し上で表現する」という意識について、ちょっとわかったような気分になったのでした。
確かに。観たいものは「あなたの上澄みとしての表現」であって、あなた自身の技術や要領のよさではない? で、そうして浮き上がってくるものは、極上の幻惑だ。
帰り道。
ぶみさんは大駱駝艦の村松さんと話しこんでるので、わたしはぶみさんの若いご友人(役者さん)とおはなしする。ご自分は3年前の合宿に参加したとか。
感銘を受けた麿さんの言葉があったんだって。
《自分のからだは、遠い遠い祖先からの肉体を引き継いだ末端である。それを意識すれば大舞台にひとりで立とうと怖くないし、その責任を思えば自己の主張などどうでもよくなる》
なるほど。なるほど!
まあね。ということがわかったところで、
ミュージカル観ながら、つまんない芝居してんな~と不機嫌になることには変わりないけどね。(今後、顔には出さないよう努力します)
※ 文中の引用、聞き書きなので違ってたらごめんなさい!