そういえばずいぶん取材されたんだったと思い出して、検索しました。
自分で撮れなかった(みられなかった)風景いろいろ。
二か月前だけど、ずいぶん前な気がするね☆
【メモ】
カルディで買った「ケニア」のコーヒーが、わたしの愛する「ケニア」の味わいではなかった件。
酸味が前に出すぎて、好みじゃなかった。
なんでこれが「ケニア」なんだ??? 勉強したことないけど、甘さとコクが特徴じゃないのか?
大昔、ケニアを旅行したときのコーヒーがうまくてうまくて、淹れる水や飲むときの空気湿度が違うのはもう仕方ないとして、
安い豆ではないので、普段から日常的に飲むわけではないのだけれど、
最近は、毎日(消費のため)うーむ???と思いながら飲んでいる。コーヒーがわたしを幸せにしてくれない。
スタバの「ケニア」はスタバくささはあるものの、おいしく飲めた。
八ヶ岳の家の近くのコーヒー屋さんの豆も、とてもおいしい。
初めは、お店のおねーさんが豆を間違えたんじゃないか?と考え、
いやいや一応プロ系の店だし、
ではカルディのバリスタ?の趣味とわたしが合わないのかな、と思い、
さっき検索してみた。
ローストが浅いと酸味が強くなるんですって。
そういえば、八ヶ岳のお店ではローストをかなり深くしてくれている(豆がとても濃い色)と父が言っていたのを思い出す。
ちなみに、カルディで「なんとかルアンダ」を買った時も、チョコレート風味の甘さが前に出てきてないなあと思ったっけ。
というわけで、わたし的にはカルディでコーヒーは買わないほうがいいらしいという、メモメモ。
前の文章で、スーパーノヴァな舞台という書き方をしたのだけれど、
スーパーノヴァ(超新星)って言葉、どんだけ一般的かしらと検索してみたら、
うあ。ぞろぞろと派生名称がてんこ盛り。
古い星が自らの重さに耐えられなくなって起こす大爆発のことです。昔のSFでは、新しい星(中性子星)に生まれ変わる的な使われ方をしたのだけれど、ブラックホールになる場合もあるらしい。
今回の場合は、古いものからから新しいものに産まれかわる爆発的な瞬間という意味ね。(あ。大きなものも失われて変化した、のかしら)
で。主に山田先生あてに。
昨夜の舞台みながら、その前から予感していたのですが、
『ザ・ビジット』は新しいカテゴリーなミュージカルの誕生ではないかなあと、いよいよ感じていまして。
エンターティンメントの枠におさまらない。
過去にまるでなかったタイプ?と思いかけたけれど、『JC=S』は近いのかな。でも『JC=S』(四季版だけかな?)はカーテンコールを復活と位置付けて、カタルシスなショーアップがあるし。
エンタメなダンスパーティではあるのだけれど。もっと抽象概念や未消化な体感や人生の無念さが残るというか。
肌触りがほかのミュージカルとは違う気がするのです。近代演劇に近いといえば、原作どおりというわけで、それまでなのだけれど。
かなめさまがおっしゃっていた、うがいと手洗いと睡眠を大切に。
みなさま、地方公演で存分に踊っていらしてくださいね。
昨夜スーパーノヴァな舞台を観て、からだをズッパリ引き裂かれ。
こぼれそうなざくろのような内臓を抱きかかえて(イメージです)、
ふとんの中でからだを折って痛みに耐える、そんな朝。
泣く真似をしてみたり、大丈夫であるフリをしてみても続かず、
胎児のようにまるまって、震えながら、
そんな自分を。
言葉を探し、言葉に置き換え続ける自分が、一方にはいるのだった。
これが自己の本性なのか。と情けない。
そして時計の二本の針が上を向き始めると、さすがに起きなきゃと考える自分がいる。
苦しんでいるつもりが、どうやら気が済んだらしい。これも本性。
禊の気分で湯船につかり、
泡立つ思いに翻弄され続けるのかと思いきや、
気がつくと、昨夜届けたメモの一文の説明足らずを悔いていたりするのだった。
「(あそこが)気になっている」ではなく「降ってくる台詞をトリガーに、あらためて世界や過去を見回して、最後の気持ちの折れがあるはず」としなければ、わからないよなあ、とか。
驚いて、苦笑する。これもわたしの本性。サガ。カルマ。
そして日常に戻るのだろうな。
この痛みを、からだに覚えさせて、
次からモノを書くときは、「だからわたしを甘やかしてほしいの!」という気分を爆発させられるようにする。
これが今日の学び。たぶん観客が求める、共感したいモノ。
ちなみに。
昨夜から、山盛りのバニラアイスとバナナの輪切りに、ハーシーのチョコソースをまわしかけたものしか食べていない。こういう状態になったわたしの胃は、そういう食べ物しか受け付けなくなるのだ。
甘やかしてほしいとからだが求めている。
のと、
頭を使うと脳が糖分を消費するというけれど、感情がかきまわされても脳(の別半分)が糖分をほしがるんじゃないかしらね。
10年前、降ってわいて導かれるように書いた戯曲がある。『春酔いの島』と名付けたそれは、古事記の冒頭のエピソード群の読みかえで、
イザナギとイザナミは最初に生まれた子どもヒルコが「欠けたからだ」だったので海に流し、その後ヤオヨロズの神々を産み、ウンヌン。
というのの、
「欠けたからだ」とは通常、手足の欠損とされるわけだけど、女性だったから、と解釈したところが話のキモのひとつだったわけで。
当時はちょうど、女性天皇についてのあれこれが言われてたしね。
書き上げたときからわたしはずっと、物語の欠損感にしばられて、でもなにが欠けているのか?がわからなくて、じりじりと考え続け(気づけば10年!w)、
ときどき手を入れては、何度かあちこちの賞に応募してみてはいたのだけれど、(実は今年も出して落選w)
あ。なぜ今さら、こんなことを書いているかといえば、
昨日、手違いのていで某氏から送られてきた書きかけの戯曲があって、つまり、あんたが書かないんならこのアイディアはおれがもらって公演するから宣言なのかな?と。
まあ、師匠が弟子のアイディアを使うなんてのは、10年待って遠回しにことわりをいれてきてる分、ていねいなことだし、
それでも、ナメられてるよなあ。
10年、寝かし続けているわたしが悪いってか?
と、植物に水をやりながら、つらつら考えていたら、
欠損部分が、ほりさげなければいけない部分が、突然「降りて」きた。
え? ありゃ??? あ。
なんだ。書かなきゃいけないことはそこだったのか。
自分のアイディアを、自分より手練れの、誰がどう使おうと怖くない。と知る。
大切なのは、どう描くかなんだ。そこにわたしの人格が問われる。
ただ問題はね。
今練っているプロットが、一番書きたいことだから。
形にするのは、そのあとだわね。
ちなみに、この一年間の東京、福岡、諏訪の神社(神楽殿)・祭礼めぐりは、神さまごとと人とのあり方を、日本人の風土を、わたしに刻み付けてくれた。
本棚の整理もしなきゃだなあ。